亡くなられた日高晤郎さんの人生が壮絶過ぎてwwww無戸籍児だった過去や養子に出された過去まとめ

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STVラジオは今日3日に、公式サイトで「ウィークエンドバラエティ 日高晤郎ショー」(土曜・前8時)のパーソナリティー・日高晤郎さんが、悪性腫瘍(脂肪肉腫)のため、死去したことを発表しました。亡くなられたのは今日で、74歳だったそうです。

 

 

日高さんは、今年に入ってから悪性腫瘍(脂肪肉腫)が見つかり、通院をしていましたようですが、本人の強い意思により、先月までステージの司会進行、番組出演などを精一杯こなしてこられました。

 

しかし、今朝から容態が急変し、今日午前、帰らぬ人となったとのことです。

 

 

1978年にSTVラジオの番組を担当し、以来40年間に渡って同局の看板パーソナリティとして活躍されてきました。

 

1983年にスタートした「ウィークエンドバラエティ 日高晤郎ショー」ではそのトークの腕前で人気を呼び、35年間に渡って毎週9時間の生放送を続けてこられました。

 

 

 俳優や情報番組のリポーター、声優などの活動を続け、75年のNHK大河ドラマ「元禄太平記」やNETテレビ(現テレビ朝日)の刑事ドラマ「特別機動捜査隊」(1961年から1977年)に出演し活躍されていた方だっただけに悲しみの声がたくさん上がっています。

 

 

そんな、日高さん。少し調べてみると幼少期から波乱万丈な人生を送られてきているんですね。今回はその日高さんが歩んできた人生をご紹介したいと思います。

 

「日高晤郎」の画像検索結果

 

名前:日高 晤郎(ひだか ごろう)

生年月日 1944年2月28日(74歳没)

事務所 日高エージェンシー

 

大阪市東成郡天王寺村山王出身の日高さん。極貧の家庭に生まれたため、出生届も提出されていなかった。いわゆる無戸籍児です。

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そして10歳で、細谷家へ養子に出された際に初めて戸籍が作られ「1944(昭和19)年2月28日生まれ」となった。しかし、養子先も決して裕福ではなく、小さな工場を営んでる家庭だったため、あくまで「人手」「働き手」として生活を送ることとなり、中学生当時から自ら働き、学費を工面。

1960年、料理人の見習いをしながら高校に通っていた時に、スポーツ新聞で見た、大映主催の「第1回ミス・ミスターフレッシュフェイスコンテスト」に応募。

中学校で演劇部だった経歴を活かし、優勝。大映京都撮影所演技研究所に入所(第2期生)

1961年、新人俳優「細谷新吾」を名乗り、市川雷蔵(以下、雷蔵と記載)の相手役として、映画『江戸へ百七十里』でデビュー。

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その後、歌舞伎役者の市川雷蔵さんや勝新太郎さんに才能を認められ、二人の師匠の下で数々の映画に出演。

1965年、大映を退社。上京を決意。活動の場を既に斜陽となっていた映画界から、テレビドラマに移転。同時に「飛鷹 一」(ひだか はじめ)に改名。

1967年、クラウンレコードから『流れ者小唄 (B面:東京阿呆鳥)』で、歌手デビュー。

「飛鷹だと読みにくい」との理由で付けられた芸名が「日高吾郎」で、現在の芸名となる(のちに晤郎と改名)。以後、3年間で、LPを含め、10枚のレコードを発売。

 

 

と、まあ幼少期から壮絶な人生を歩まれ役者、歌手、声優にラジオのパーソナリティーとしてもご活躍されていた日高さん。

 

 

身の意思転換や善し悪しの判断を曖昧にせず明確にし、相手が何(誰)であれ「良い物は絶賛し、駄目なものは駄目」と良くも悪くも躊躇なく批評し、「筋を通す」ことを徹底している性格で、本人はそれを承知の上で「8割の人に嫌われてもいい。残りの2割の人を大事にしていきたい」と度々『日高晤郎ショー』の番組内で語っていました。

 

 

そんなところも人気の秘訣だったんでしょう。

 

「芸人とお客様の間は一線を引くべき」との考えを強く持っていて、プライベートを明かすことは少なく、闘病についてもあまり語ってはいませんでした。

 

心よりご冥福をお祈りいたします。

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